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音楽業界アーカイブ&インタビュー

海外の音楽業界・スクール事情

日本と海外はこんなにも音楽教育に対して環境がちがう!
海外の音楽学校って実はこんな内情です。などお送りします。

イタリア


リポータープロフィール


富永正子
富永正子(とみながまさこ)


大阪府茨木市に生まれる。

幼少の頃よりピアノを学び、相愛子供の為の音楽教室、相愛高等学校音楽科ピアノ専攻を経て、相愛音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ科専攻卒業。大学在学中より、オペラに興味を持ち、声楽の伴奏にいそしむ。卒業後は渡伊。ペルージャでイタリア語を学んだ後、ローマへ。ローマで指揮者、故オッターヴィオ・ズィーノのもとでオペラ伴奏を学ぶかたわら、本格的に声楽の勉強を始める。その後ローマ・サンタチェチーリア国立音楽院声楽科に入学。同音楽院を次席で卒業。

その年に出た音楽雑誌「SUONARE MUSICA」(音楽演奏)のなかで「本年度のもっとも優れた国内音楽院の卒業生たち」の1人として掲載される。同音楽院でその後2年間研修生として学ぶ。その後、仏のボルドー・ノートルダム寺院で行われたヴェルディ記念コンサートに出演。2001年から翌年にかけて数回にわたり、ローマ法王公式謁見のなかで聖歌のソリストを務める。2002年地元テレビ局SAT2000の番組「VIVENDO PARLANDO」(話しながら 生きながら)に数回にわたりソリストとして出演。2003年以降はローマにはじまりリモーネピエモンテ、リエティ、ブラッチャーノ、セッツェ、モンテカステッロディヴィーヴィオ、コローニャヴェネトにおける劇場、コンサートホール、教会などでオペラ(「カルメン」「セビリアの理髪師」「奥様女中」「バスティアーノとバスティアーナ」に出演するほか、宗教音楽や室内楽、歌曲コンサート、オペラアリアコンサートを行い今日に至る。1992年よりNHKラジオに海外リポーターとして出演。歌い手のピアノ伴奏を行うほか、音楽教室でピアノと声楽の講師を務める。また最近は日本書籍のイタリア語翻訳にも取り組んでいる。

第2回
なにはなくともまず語学!

vol.2



イタリアに渡り、何をするにもまずは、伊語をマスターするべきだという父のアドヴァイスを受けて、ペルージャで伊語の勉強をはじめました。そこで今までの人生で初めて勉強というものに打ち込みました。

イタリアの音楽教育機関はほとんどが国公立です。運営費用は当然のことながら国、すなわち国民の税金でまかなわれています。特に私が勉強していた頃の学費は9月から翌年の6月中旬まで、日本円で5,000円にも満たないというものでした。しかも数々の試験の成績が平均8点以上(10点満点)のものは学費免除だったのです。ちなみに私も4年間免除していただきました。海外から何の気なしに学校へ入って、イタリア国の国民のお金で勉強させてもらっている。私のポストにはもしかすると他のイタリア人が入れたかもしれない。留学生にありがちな甘え(「音楽を勉強しに来たのだから、語学は……」)を持たず、イタリア語の習得や、イタリア人学生およびび教授とのコミュニケーションには懸命に取り組みました。

その後、私はローマに移ります。そして大御所であった指揮者、故・オッターヴィオ・ズィーノ氏にオペラ伴奏を習っているとき、伴奏をしながら歌うレッスンの途中に「きれいな声だからぜひ歌も勉強しなさいと」勧められ、本格的に歌の勉強を始めました。 そしてローマ・サンタチェチーリア国立音楽院の入学試験を受けます。当時、先生を含む周囲の人たちは半信半疑でしたが、私自身は来る日も来る日も練習に打ち込み、合格することを決して疑いませんでした。そして入学試験はうまくいき、私は次席で入学することができたのです。

それにしても当時の入学試験自体に私は驚きました。朝の9時に召集があったのですが、長い長い間待たされて、私が歌ったのはなんと午後3時すぎ。日本ではあり得ないことです。受験生は約120名。結局その中で30数名が入学しましたが、その後順当に5年間でディプロマ(卒業証書)を受けたものは私を含む計2名だけでした。あとの人たちは何らかの理由で留年してきた人たちが大半を占めていました。イタリアの音楽院は入ったあと、専攻の歌を含め数々の試験があり、そこである程度の成績を残さなければ外に出されるか、留年させられるというシステムになっているからです。絶対的な生徒数は新入生で保たれていて入学した後は何かにつけ容赦なく放り出されるといったような感じでした。ここでもまた、日本とはまったく逆だな、と思いました。

第3回 「留年?退学? 厳しい試験を乗り越えて」へつづく